第50話  自分の身体に感謝しましょう!!  
                 〜  産後の「血の道症」  〜
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「治療室の小窓」も、早いもので50話を迎えました。
改めて振り返ってみると、様々な患者さんの物語をご紹介してきましたが、
この50話の患者さん以外にも勿論、ご紹介しきれない数多くの物語が、
ありました。これからもまだまだご紹介したいのですが、
キリがありませんので、50話というちょうどいい数字で、
「治療室の小窓〜症例篇〜」として、このページは終了したいと思います。
そして、改めまして、「治療室の小窓〜徒然なるままに篇〜」として、
再スタートいたしますので、どうぞお楽しみに・・・

さて、第50話は、当クリニックに来院される多くの患者さんの中でも、
とりわけ壮絶な物語と言える、女性のお話です。
「治療室の小窓〜症例篇〜」のトリを飾ってほしいと伝えると、
「いいですよ〜光栄です。」とにっこりチャーミングな微笑を浮かべた彼女が、
3年余りという長い長い地獄の様な日々を乗り越えて来たとは、
彼女を支えてきたご家族や周囲の人、心療内科の先生、そして私以外には、
誰にも解らないかもしれません。

彼女は、平成25年に待望の第1子を出産しました。
お産も楽で元気な女児で、何の問題も無い幸せな日々が訪れるはずでした。
もともと、肩凝りなどもあり、大きなお腹でぎりぎりまで仕事もしていたので、
当然のことながら、出産という著しい体力の消耗とその後の育児で、
体調を崩すのは決して珍しい事ではありません。
また、妊娠中、フル回転で分泌された女性ホルモンが減少し、
自律神経のバランスが崩れ、更年期障害と同様に、
いわゆる「血の道症」が起こりやすくなります。
彼女も、出産直後から、眼の奥が痛くさらに顔面全体が痛くて、
それが頭に登ってくるという症状に悩まされるようになりました。
東洋医学では、「肝は眼に開孔す」と言います。
「肝」は、西洋医学の肝臓よりも、解釈が広義で、「肝は血を蔵す」臓器で、
「血の道」としての役割も担っています。
なので、血液を大量に失う出産は、「肝」を疲弊させるので、
昔の人が、「産後に裁縫などで眼を疲れさせると、肥立ちが悪くなる」
と言ったのは、昔の人々の経験からくる優れた教えです。
産後からスマホをしょっちゅう見ているという彼女に、
上記の話をし、できるだけスマホを見ないようにアドバイスしながら、
眼の周りを中心に顔面に鍼治療をしました。

次第に顔面全体の痛みは薄れ、眼の奥もさほど痛まなくなった頃から、
今度は、「左耳の中が熱い感じがして、それが左側の顔までくるんです。」
耳の中にヘルペスができるとそういう症状が出るので、
すぐに耳鼻科受診を勧めましたが、耳鼻科では何の異常も無いと言われ、
大きい病院で耳に関する踏み込んだ検査を受けても異常無し。
そのうち、両手両足にヒリヒリした痛みや、虫が這うような感覚まで出始め、
脳外科で検査をしても、異常無し。
「もう、産後3カ月経って、他の人は元気に床上げしてるのに、
私はどうしてこんなことになってしまったんだろうと思うと辛い。」
彼女は泣きだしてしまいました。
「そうよね・・・辛いよね。でも、こんな状態が永遠に続く事は絶対ないから、
とにかく一歩ずつ前へ進もう。時には3歩進んで2歩下がる、2歩進んで
3歩下がるというのを地道に繰り返してたら、そのうちポコっと、
5歩進んだり、そこから3歩下がってまた6歩進むという具合に、
ちょっとずつ前へ行けるから。」
そう言いつつも、私自身の治療もその都度試行錯誤の連続でした。

幸い母乳はよく出て、時に出が悪くなっても、促進する鍼治療をすると、
ミルクを足さなくてもいいくらいだったものの、
夜は起きれず、搾乳した母乳をあげたりオムツ替えをしたりするのは、
実母の役目。
朝もしんどくて起きれないので、夫の出勤も見送れず、
少し動けるようになる昼ごろまでは、赤ちゃんの世話はやはり実母が。
「私は、母親らしい事が何もできてない。旦那さんにも迷惑をかけてる。
私なんか居ない方がいいと思う。」
ずっと実家で寝たきりの様な状態で、実母に赤ちゃんの世話をしてもらい、
夫にも実家から出勤してもらっているという自分への自己嫌悪。
最も身近で愛すべき対象であるが故に、イライラをその二人にぶつけては、
また、自己嫌悪に陥る・・・まさに彼女にとっては地獄のような日々です。
「母親らしい事ができてないことはないよ。赤ちゃんにとって、
市販のどんな良質のミルクよりお母さんのおっぱいに勝るものはないよ。
1日に1回でもいいから、出来る時に赤ちゃんを胸に抱いて、
じっと目を見ておっぱいをあげたら、それだけで充分よ。
それに、ねんねの間は泣けばオムツを替えて泣けばミルクをくれる人が、
居さえすれば、それは極端に言えば、他人でも問題ないんよ。
3歳頃からは、本当にお母さんが必要になるから、それまでに治そうね。」
「でも、それまでに治りそうにない。治ると思えない。」と、また、涙が
頬を伝います。

その後、できるだけお薬に頼らずカウンセリング中心にケアしてくれる、
心療内科の先生にもかかりながら、鍼灸治療も根気よく続け、
産後半年が過ぎて行きましたが、
その後も、少し気分の良い時と、また悪化する時が波のように繰り返し、
下を向くとフワフワして気持ち悪い、耳の中でバリバリ音がする、
毎朝起床時に身体中が震える、背中が熱くやけどみたいにヒリヒリする、
明け方にぼんやりした時、何故か昔の古い型の扇風機や、
知らない何人かの顔写真が見えたりする、など・・・
さまざまな捉えどころの無い症状が次から次へと、彼女を襲い続けました。

産後1年が過ぎた頃から、ようやく、彼女をこれでもかと言う程襲っていた、
さまざまな症状が少しずつ消えていき、彼女の身体から「気」が出始め、
脈にもそれが現れ出しました。
「なんか動かないと嫌な気がしてきたんです。動いてる方が調子いいのが、
解ってきだした。心療内科の先生にも最近目が普通になってきたと
言われました。この感じだと、仕事にも復帰できそう。」と嬉しそうです。
鍼灸治療すると、3日間位良く動けるようになってきて、
子供と母親と犬の散歩に行ったり、デパートで子供服を買い物したり、
子供の誕生会をしてくれるという夫の実家に招かれて、
夫の運転する車で片道1時間の距離を日帰りできるようになりました。
「でも、何日か動くとどっと疲れて、また何日か寝たきりになるんです。
そしたらまた、なんでこうなるんだろうと悲しくなってきて・・・」
「今までできなかった事がこんなにできるようになったじゃない?
そこにだけ目を向けて。焦っちゃダメよ。
できない事を数えるんじゃなくてできるようになった事を数えて。」
「そうですよね。」
でも、まだまだ彼女の試練は続きます。

今後のこともあって、心療内科の先生の指導のもと、
お薬を徐々に減らし始めると、やはり離脱症状が現れだし、
その後も調子のいい日と寝たきりの日が交互に波の様に押し寄せ、
耳が痛くてビリビリする、身体が強張る、身体全体がムズムズする、
胸のあたりがソワソワして苦しい、背中がヒリヒリするという症状が、
また次々と彼女を襲い続けます。
でも、この間に子供が保育園に行き始め、朝は起きれないので、
実母に連れて行ってもらうものの、次第にお迎えに行けるようになり、
母と一緒に、子供を連れて何カ所かの公園で遊ばせたり、
夫と子供と遊園地に行ったり、普通のお母さんの生活が、
徐々にできるようになってきました。
「旦那さんからも母からも、1年前と全然違うって言われます。
でも、自分では、なんで1年前はできなかったんだろう?
子供にとっていいお母さんじゃなかったと思うと、泣けてきます。」
「1年前はもう済んだことよ〜今これだけ良くなってきてるんだから、
過去より、現在とこれからが大事なんだからね。」

子供が3歳を迎える頃、彼女は見違えるように元気になってきました。
実家から自分のマンションに何日か帰れるようになり、料理も作り、
夫に弁当を持たせ、見送り、子供の保育園も送り迎えできます。
「朝少々起き辛くても、ちゃんと起きれるようになりました。
自分でも前よりずっと良くなってると思います。」
あぁ〜彼女の口からこの言葉が聞きたかった!!
私にとってもこの上ない喜びです。その上、
「心療内科の先生にも、鍼がいいのかもね、鍼の先生によろしくって、
言われました。」と、嬉しいお言葉。
「それは、途中で諦めずに治療を続けたから、その賜物よ。」

現在、彼女は、マンションで夫と子供の3人暮らしをちゃんとこなし、
すっかりいい妻、いいお母さんをやっています。
子供が3歳になる頃には治そうと言っていたのが現実になりました。
つい10日程前には、平日なので子供の保育園を休ませて、
実父の運転する車で、母と4人で1泊2日のお伊勢参りをしてきたとのこと。
「母は帰ったら疲れたと言って寝てたけど、私は元気でした。」
すばらしいことです!!
これからの課題は、まだ残っている症状(でもこれは、あの地獄のような
おびただしい症状に比べたら微々たるものです)の克服と、
「2人目が欲しいけど、またあんなになったらと思うと怖くて・・・」
「自然に任せたらいいと思うよ。こうしなきゃとか、こうあるべきじゃなく、
今は一生懸命、旦那さんと子供さんと自然の流れに任せてたら、
なるようになっていくよ。」

コップに水が半分入っているのを見て、あなたは、「まだ半分ある。」と、
思うタイプですか?それとも、「わぁ〜半分しか無い。」と思うタイプですか?
人は、自分の身体や置かれている状況が思わしくない時、
ネガティブになりがちですが、私の長い鍼灸師としての経験から、
良いことよりも悪いことへ目が向きがちな人の方が、
治療の結果が出るのに断然、時間がかかる傾向にあります。
彼女の例のように、少しずつにしろ次第に改善していても
本人はまだここが悪い、まだここが良くないと、悪い所ばかり
見つけようとして、良くなった所へは目が向きにくくなっていました。
自分で自分の脚を引っ張っているのに気付きません。
これは、心理学で「認知バイアス」と言いますが、
物の捉え方のひとつの癖のようなものなので、
この癖を自分で変えていく事が必要です。
「認知行動療法」では、良いことと悪いことを紙に書いて視覚化する事で、
癖を正す方法等があります。

いずれにせよ、コップにまだ水が半分あるというのはありがたいことです。
不調な部分や欠けた部分があっても、自分の身体にまだ、
良い部分がある事、また、良くなろうとしている部分がある事にもっと、
眼を向け、それを愛し、感謝する気持ちが、大切です。
自分の身体が健康であることは決して当たり前ではありません。
当たり前でないと思うと、少しでも良くなった自分の身体に、
ありがたいという感謝する気持ちが湧いて来ないはずはありません。
小林麻央さんのブログをよく見ていたという彼女は、
それに気付き始めていると思います。

彼女のさらなる成長が楽しみです。
                               (’17.6)

「治療室の小窓〜症例篇〜」はこれにて終了致します。
長い間、ありがとうございました。

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